宮古島への移住を目指しているあなたにとっては、宮古島に移住することがゴールのように感じているかもしれません。私自身もそうでした。
仕事をやめ、荷物をまとめ、新居を探し、引越しをする。
ただの引っ越しではなく、何のゆかりもない沖縄の離島への移住。
決断をするのも、行動に移すのも大変なことです。
移住してからしばらくは、宮古島に暮らしているという事実だけで喜びを感じ、幸せな毎日を送ることができましました。
しかし、移住生活に慣れてくると、キラキラと輝いていた毎日が、徐々に輝きを失っていきました。
「非日常」だからこそキラキラ輝いていた毎日は、「日常」になったことで、輝きを保てなくなってしまったのです。
宮古島への移住というゴールは、同時に宮古島移住生活のスタートでもあります。
移住3年の壁
宮古島では、移住者にとっていくつかの壁があると言われています。
「3週間の壁」「3ヶ月の壁」「3年の壁」
中でも「移住3年の壁」は移住者の大きなハードルとなっています。
「3年間」は短いようでとても長いです。
中学生が3年間で様々なことを経験するように、宮古島に移住してからの3年間で、移住者は良いことも悪いこともたくさん経験します。
移住前には想像しなかったようなことで喜び、悲しみ、後悔します。
宮古島に移住してから3年以内に内地に帰っていく人はとても多いです。
私自身も、正直なところ最初の3年間は何度も「宮古島移住は失敗だった」と思いました。
当時は「どうして宮古島に移住してしまったのだろう」と自分を責めたものです。
正直に言います。
私が今でも宮古島で生活を続けているのは「島を出るための転職活動に失敗したから」です。
もし転職活動に成功していれば、私は移住から3年以内に宮古島での生活に見切りをつけ、内地に帰っていました。
私も本来なら移住3年の壁を越えられなかった人間なのです。
私が宮古島移住を決めた経緯と、宮古島で私を待っていた現実、宮古島から帰りたくなった理由をまとめました。
移住する前の私
大学を卒業し新卒で民間企業に入社しました。希望の業界に入れたこともあり、私はやる気に満ちあふれていました。
負けず嫌いな性格の私。受験戦争や就職戦争で結果を出すことが全てというような生き方をしていました。
社会人になると、仕事で同期よりも成果を上げること、先輩の評価を得て出世することばかりを考えていました。
当然、新卒からの数年間は仕事が全てというような生き方になりました。
勤務が不規則な職場だったので、朝5時に出社することもあれば、深夜2時まで働いていることもありました。残業時間が月に100時間に近い時もありました。
表向きは週休2日の会社でしたが、しっかり週に2日休めることはほとんどありませんでした。月に1回しか休みがないようなことも、普通にありました。
心も体も限界でしたが、きちんと成果を出せるまでは頑張ってみようと、歯を食いしばって働き続けました。
若手社員の離職率は高く、私の同期も入社3年間で半分ぐらいは退職しました。
同じ部署の先輩も次々に仕事を辞めて行きました。
「自分はこのままでいいのだろうか?」「仕事が全ての人生でいいのだろうか」
疑問を持ち始めるようになりました。
宮古島との出会い
ちょうどその時期、ふらっと立ち寄った書店で、ひきつけられるように「地方移住」の雑誌が並ぶコーナーに立ち寄りました。
目に止まったのは、沖縄離島について書かれた一冊の本
旅行でいいから、一度、沖縄の離島に行ってみたいと強く思いました。
その数ヵ月後、旅行で妻と初めて訪れた宮古島。
島の美しさと、ゆっくりと流れる空気に、私たちは心を奪われました。
「この島に住みたい」
淡い恋心のような宮古島への思いは、ふくらむ一方でした。
しかし、仕事を辞めるのは簡単ではありません。
一番ネックだったのは、私自身のプライド。
競争社会の中で勝ち残ることが全てだと思って生きてきた私。
「希望の業界に入れたのに、数年で辞めてしまっていいのか?」「もう少し踏ん張れば仕事は楽になるんじゃないか?」
私にとって会社を辞めることは、今までの自分の生き方を否定することでした。
2人で何度も話し合いを重ねました。
結論が出るには長い時間がかかりましたが、私たちは「宮古島移住」を選びました。
後に私が後悔することになったこの決断。
私たちが想像していた以上に困難な、宮古島での生活が始まりました。
宮古島での移住生活
憧れの宮古島での移住生活。移住を決断したからには、宮古島での生活を思いっきり充実させようと、私はとても前向きな気持ちでした。
移住したのは春。いつでも美しい海を眺められることに感動し、花粉症がないことに感激し、渋滞がないことを喜び、ゆっくりと流れる島の時間に癒されました。
ドライブをしたり、シュノーケリングをしたり、観光ガイド本には載っていない、誰もいないビーチを探したり。
私の心は宮古島の青空のようにすみわたり、解放感に満たされていました。
当時の宮古島は今ほど景気がよくありませんでしたが、ラッキーなことに仕事も見つかりました。
給料は前職よりもかなり少なくなりましたが、地元企業に正社員として雇ってもらうことができました。
仕事を通して知り合いもたくさんできました。職場の先輩に教えてもらって潮干狩りに行ったり、島の野菜をもらったり。移住生活はより豊かなものになっていきました。
私が宮古島から帰りたくなった理由
順調に進むと思った私たちの移住生活。
しかし「このまま宮古島で幸せに暮らしていける」と思ったのは最初の数カ月で、移住から1年もたたないうちに、私は内地の企業への転職活動を始めました。
私が宮古島から帰りたくなった理由は「仕事」にまつわるものでした。
仕事は大変なのに給料は少ない
宮古島での仕事は決して楽ではありませんでした。内地で忙しく働いていた頃に比べるとましですが、仕事がきつい割に給料がかなり少なく精神的にとてもきつかったです。
宮古島では週休2日の企業はほとんどありません。日曜日は休みのところが多いですが、土曜日は普通に働いている人が多いです。私の職場も同様で、土日が連休だったことはほとんどありません。
残業も普通にあります。宮古島の企業は全体的に人手不足。1人1人の負担は大きいです。
給料はかなり少ないです。沖縄県の平均所得は全国平均の3分の2と言われていますが、離島の宮古島は沖縄の中でもさらに低いです。
初任給13万円とかも普通にあります。15万円ぐらいの企業が多いです。18万円もらえれば、かなりいい方。中途採用でも、新卒と給料はほとんど同じです。
特殊な資格を持っている場合は別ですが、移住者が地元企業に採用される場合、前職での経験はほとんど考慮されません。前職が内地の一流企業であっても、フリーターであっても、給料に差はつきません。
宮古島には高校がなく、高校卒業後多くの人が島を離れ、島に帰ってくるのは30代。地元企業には新卒採用という考えがあまりありません。中途採用も新卒採用のような扱いです。私も新人がすべき仕事は全てやりました。
残業代は基本的に支払われませんでした。朝8に出社し、夜11時頃まで働いても残業代はゼロ。心が折れそうになりました。
宮古島で残業代をきちんと支払っている職場はほとんどありません。ボーナスもありません。給料1カ月分でもボーナスが出ればラッキーという感じです。
仕事の内容も楽ではありませんでした。前職とは違う仕事内容だったので、慣れるまではかなり大変でした。
特に外回りの仕事が多く、夏の暑さにやられて体力的にもかなりきつかったです。移住前は、涼しいオフィスでばかり仕事をしていたので、宮古島の暑さに体が悲鳴をあげました。
サボる人を認める文化への違和感
宮古島の人たちは、仕事に対するスタンスがバラバラです。仕事をがんばる人もいれば、仕事をサボってばかりの人もいます。
もちろん会社の利益を出すためにやるべき仕事があるので、みんなで頑張らないといけないのですが、サボる人はサボる。
内地の従業員数が何百人もいるような大企業だと、サボる人は冷たい目で見られ、部署をとばされ、リストラの対象になるでしょう。
しかし、宮古島ではそうはいきません。人と人とのつながりが強く、みんなが親戚のような島なので、簡単にリストラなんてできません。
仕事を頑張る人は、サボる人に文句を言うことも、冷たい目で見ることもなく、黙々とその人の分も仕事をします。
「サボる人の存在も認め、許す」「兄弟のように、親戚のように助け合って働く」これがこの島のルールです。
仕事の少ない小さな島で、みんなで生きていくために守られてきた、この島のルールです。
では、移住者が仕事をさぼっても許されるかというと、そんなに甘くはありません。
宮古島の人たちにとって移住者は「兄弟」でも「親戚」でもなく「よそ者」です。
よそ者がサボれば、仲間にしてくれるわけがありません。
兄弟や親戚のような関係の人たちの輪の中に入って信頼されるには、相当な努力が必要です。私の職場も宮古島の人たちがほとんどだったので、信頼を得るにはかなり頑張らなければなりませんでした。
移住者の私は、この島の独特のルールを理解できず、不公平感を感じ、仕事が嫌になりました。
3年の壁を越えられなかった私
「仕事が全てではない人生を」と移住した宮古島。移住してしばらくは「非日常」な島での生活を満喫できました。
しかし、移住してしばらくたつと島での暮らしは「日常」になり、生きていくために「仕事」が中心の生活になりました。
価値観を180度変えて生きていこうと心に決めていましたが、仕事がうまくいかなくなると、考え方もどんどん後ろ向になっていきました。
「新卒で希望の業界に就職できたのになぜやめてしまったんだろう」
「前の職場でもう少し頑張っていれば今頃どうなっていただろう」
「ずっと競争社会の中で頑張ってきたのに大事なところで逃げてしまった」
「移住しなければよかった」
「宮古島移住は失敗だたった」
私は移住3年の壁を越えることができませんでした。
移住して1年がたつ頃には、内地の企業への転職活動をはじめました。
しかし、20代で宮古島に移住した私の転職活動がうまくいくわけがありません。
「入社から数年で会社を辞め、宮古島に移住したような人間を雇っても、またすぐに辞めるだろう」採用担当者がそう考えるのは当然です。
履歴書を送り続けましたが、全てダメでした。面接にも呼ばれませんでした。
この時期は、かなりつらかったです。
宮古島移住前の職場でくすぶっていた時もつらかったですが、宮古島から出るための転職活動がうまくいかなかった時期は、その何倍もつらかったです。
移住失敗した私のその後
私の宮古島移住は失敗しました。移住3年の壁を越えられませんでした。
それでも私が宮古島にとどまっているのは、私が島を出るための転職活動に失敗したからです。
転職活動がうまくいかなくても、地元に帰るという選択肢もありましたが、プライドの高い私は「移住失敗」を周りに知られるのが嫌で、次の仕事が決まるまでは内地に帰りたくありませんでした。
「移住失敗」を悟った私は、くよくよしながらも、とにかく目の前のことを頑張りました。
仕事に対する不満はたくさんありましたが、生きていくために仕事を続けました。
移住4年、5年と年月が経つうちに、少しずつですが、移住に失敗した自分の状況を受け入れ、職場の環境も受け入れられるようになってきました。
仕事にも少し余裕ができ、仕事以外でも仲間を作れるようになってきました。
今では「移住してよかった」と思える瞬間も少しはあります。
縁もゆかりもない沖縄の離島、宮古島で移住者が生きていくのは簡単ではありません。
宮古島での生活に見切りをつけ、3年以内に帰っていく移住者は本当に多いです。
宮古島移住はいばらの道。もしもあなたが20代で現状に行き詰まって移住を考えているなら、その思いも含めて転職エージェントに相談することをオススメします。
私は宮古島移住を後悔しています。「移住せずに転職しておけばよかった」が私の本音です。
「移住3年の壁」を越えられなかった私の経験談が、宮古島への移住を目指す皆様の参考になれば幸いです。